第8回めぐろスポーツまつり

10月13日体育の日に、碑文谷体育館において、第8回めぐろ
スポーツまつりが晴天の中おこなわれました。

この中で、少年野球教室があり、本年度は㈶つばめスポーツ振興協会さんの協力の下、ヤクルトスワローズOB9名による講師陣をお迎えし200名を超す少年たちと3時間にわたりみんなで汗を流しました。

縁あって講師井原さんと共通の友人によって、ヤクルト球団・つばめスポーツ振興協会さんを通じ趣旨賛同をいただき実行できたこと、子どもたちの元気な返事と機敏な動き・・・実行まで本当に気苦労が多いいが、少しでも子どもたちの健全育成や技術向上のきっかけづくりの一端になれば救われます。

球速150Kmオーバー井原さんと身長194cm宮城さん


実業団で私の先輩であり職場の新人指導員の高校時代後輩であった高仁さん
事務局で一から十まで面倒を見てくれた球団の中井課長・・・皆さん本当にありがとうございました。
しかし、丸山完二講師(財団理事長)の迫力は凄かった!!あまりの迫力で朝の打ち合わせ挨拶で久しぶりにビビってしまった(@_@;)
バイタリティーあふれ豪快なトークも魅力的で、今後も様々な場面で勉強させていただければと感じました。

講師の略歴は以下
佐々木 重徳 (S30国鉄入団/背番号1)千葉第一高校から明治大学に進学。1955年に中退し、国鉄スワローズへ入団。二年目にセカンドのポジションを獲得し、1958年までレギュラーとして活躍した。1961年に引退。

坂巻 豊 (S35国鉄入団/背番号43) 鎌倉学園高-法政大-国鉄(62年-64年)-サンケイ(65年)遊撃・二塁・三塁・外野

丸山 完二 (S37国鉄入団/背番号8)西脇工業高校を経て立教大学でプレーし、3年生時の1960年の東京六大学野球秋季リーグ戦では打率・3割6分5厘で首位打者に輝き、ベストナイン(二塁手)にも選ばれた。2005年一杯で44年間所属したスワローズを定年により退職。プロ入り後、スワローズ・アトムズから一度も球団を離れることなくで活躍した丸山は、この年スワローズOB会2代目会長に就任した(初代会長は田口周)。また、ヤクルト球団及びOB会によって組織されたNPO法人「つばめスポーツ振興協会」の理事長にも就任した。また、NPB12球団ジュニアトーナメントではヤクルトジュニアの監督を務めており、第1回大会(2005年)では見事に優勝した。

赤井 喜代次 (S40サンケイ入団/背番号41) 享栄高-本田技研-サンケイ(65年-68年)-アトムズ(69年)外野・捕手

井原 慎一郎 (S45ヤクルト入団/背番号26)丸亀商業高校から1970年にヤクルトへ入団。1975年頃から試合数が増え中継ぎ投手として活躍。1978年のリーグ優勝にも貢献した。その年の日本シリーズ第5戦では勝ち星を挙げる。その後も150km/hの速球を武器に活躍する。1984年に現役引退した。

三橋 豊夫 (S46ヤクルト入団/背番号34) 鴻巣高-日本通運-ヤクルト(71年2位-76年)投手・外野

安田 猛 (S47ヤクルト入団/背番号22)小倉高校、早稲田大学、社会人野球の大昭和製紙を経て、1971年にドラフト6位でヤクルトアトムズに入団。早大時代は二番手に甘んじたが、社会人に進み頭角を現し、都市対抗野球で橋戸賞を獲得。技巧派投手として入団当初から活躍し、1年目に7勝5敗、防御率2.08の成績で新人王と最優秀防御率のタイトルを獲得、翌年にも防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。小柄なサイドスローの投手で、抜群のコントロールと緩急自在の投球術、機敏な動きからペンギン投法と呼ばれ、名投手としてファンに親しまれた。1973年7月16日の阪神タイガース戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立。田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵幸一への敬遠四球で記録が止まった。1975年から1978年まで4年連続2桁勝利を挙げた。1979年に膝を故障したことで成績が低迷し1981年に引退。引退後はヤクルトの投手コーチ、スカウトを経て、現在は編成部長

高仁 秀治  (S56ヤクルト入団/背番号44)東京農業大学第二高等学校-ヤクルト(ドラフト81年4位-91年)

宮城 弘明  (S56ヤクルト入団/背番号40)宮城の恵まれた体格は少年時代から有名で、高校2年時に横浜市立横浜商業高等学校(通称・Y校)を41年ぶりの甲子園出場(1979年夏)に導いた。同校は宮城の活躍で勝ち進むも準決勝で和歌山県立箕島高等学校に破れた。

2008年10月13日(月)

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